野に居るべし

ほぼメモ帳

子供が親を憎んでいる時、それは親が悪い。でも全責任が親にかかるわけじゃない。それは当たり前のことだから。

子供が親を憎んでいる時、それは親が悪い。でも全責任が親にかかるわけじゃない。それは当たり前のことだから。

 

これは私が生きてきて感じたことです。

 

地元から少し離れた高校に電車で通学し始めた時。

 

高校の距離よりも地元から離れ、人がたくさんいる市内の大学に行ってから。

 

大学を卒業し、専門学校や他の大学を卒業した同期、会社でずっと働いている上司、数年働いている先輩たちと一緒の職場で働くことになった時。

 

私が苦しいと感じていたのは、ずっと自分に対してのことでした。

 

小学生の頃から、自分に対して嫌悪感を抱いていました。

 

それに拍車をかけるように、「自分には厳しく」、「今の自分に満足はするな」といった言葉を真に受け、小さいときから自分に対してひどい言葉を投げかけていました。

 

これは部活動の影響が大きいと思います。

 

同時に、親や家庭のことでも苦しみました。

 

自分の部屋がないこと。親がいつも干渉してくること。中学校・高校の進路相談にも、大学時の就職活動時にも。

 

仲が悪かったわけではありませんが、まさしく誰にも打ち明けられないし、逆に自分のことをさらに痛めつけなけらばならないとさえ思うほど、周りの環境や人間に対して嫌な気持ちを持ったこともあります。

 

環境や周囲の人間のことを嫌だと感じた時、よく「周囲のせいにするな」という言葉がセットでつきがちだと思います。

 

私もずっとそう言い聞かせてきました。

 

そしてそれは正しいと思います。

 

ただ、最近はこう思います。

 

苦しいときや自分が嫌だなと感じている時、最初からその原因を完全に自分だけにするのは本当によくない。

 

環境や人のせいにしてもいいと思います。

 

どうして「人や環境のせいにしてはいけない」。

 

私は、「それでは解決することができないから」という理由が一つだけあるからだと思います。そして、それがすべてだと。

 

「自分という人間性を高めるために、人や環境のせいにするのはよくない!!」というのではなく、単にそれで解決することができない場合が多いからということだと思います。

 

でも、「人や環境のせいにする」というステップは重要だと思います。

 

そのステップを踏んでいるうちに、「やっぱり自分は悪くない、いやだ。」とか、「ちょっと自分も悪かったかもな、、、」みたいな感情の揺れがあっていいし、それが必要なんだと思います。

 

今でもそうですが、「0か1か、最大か最小か、どっちがよくてどっちが悪いか」という判断をしてしまいがちで、こういったステップを踏むことによって、それらが混ざり合って、極論的な考え方を弱まらせてくれるような気がするのです。

 

このステップ自体は全く悪いことではないと思います。

 

でも、最初から「人のせいにしては絶対にいけない」とか「環境のせいにしてはいけない」とか言った言葉を妄信してしまうと、苦しむことになります。

 

私も、インターネットが使えなくて、自分の物理的に近い身の回りの人や環境でしか生きられていなかったときはすごく苦しく感じていました。

 

インターネットがつながり、移動できる距離も増え、行ける場所も増えていくなかで、今いる場所が正しいとか、間違っていないわけではないと感じれるようになりました。

 

私は親を好きではありません。

 

それは私だけでが悪いわけではなく、親も悪いと思っています。

 

ただ、全責任は親にあるとは思っていません。

 

まずそれは、とることができない責任だからです。

 

悪いということと、責任をとれることは別だから。